
宇宙・大地・海 そして森と動物たち…私たちを表現へといざなう創作の源…

雄弁は銀、されど沈黙は金。西洋の古い諺だそうです。語ることには価値がある。しかし、場合によっては沈黙のほうがいっそう意味がある。当たり前だと言われるかもしれません。日本ではどうでしょう。日本では「沈黙は金、雄弁は銀」です。けれども西洋と日本では、ニュアンスが違います。西洋では雄弁が先に来ています。西洋では「語ること」は、普通の状況では、いい事なのです。けれども日本では逆に、「語らないこと」「黙っていること」のほうが、普通の状況で良しとされます。
日本人は英語の会話が苦手、でも文法力や読解力はある、よく聞く話です。刀をさして堂々とあたりを睥睨しながら闊歩する江戸時代の武士が、べらべら喋っている図はちょっと想像できませんよね。そうなんです。我が国日本は「寡黙」を美徳とする文化でした。
そんな日本で、「サロン文化」など、そもそも根付くはずがないのでは?
でも、井戸端会議やママ友の集まりでは、みな、大いに盛り上がっています。仕事帰りの飲み会では、男性諸氏も全員にぎやかです。それはそれで良いのかもしれません。表の顔と裏の顔。建前と本音。本当は私たち日本人も話すのは大好きなんです。雄弁は西洋人だけの特権ではありません。集まって話すこと、自分を表現すること、その行為がその場限りの泡のように消えてしまうものでなく、なにか他の人の刺激になるような話題、ヒントになるようなトピック、そういうことを少しでも意識していけば、それが「文化」と呼ばれる、ひとつの永続的・精神的価値につながっていくのではないでしょうか。
ヨーロッパでは各国・各地方が陸続きで、様々な歴史や文化を担った人たちが互いに入り混じって行き来していたため、争わず平和に交わる術を生活の中で発展させざるを得ませんでした。そんな中から社交がひとつの文化として定着してきました。「サロン文化」はそのような「社交文化」のひとつの形です。集まる人々は30人から40人、大体顔見知りで、ゆるやかなグループを形作っており、ひとつのテーマを一定期間続けて取り上げる、人々はそれぞれ自分の意見を述べるが、決して相手を非難したり、勝ち負けを争ったりしない、話題は未発表の文学作品だったり、芸術作品だったり、時には政治や哲学的会話も行われる、そういった集まりがヨーロッパの「サロン文化と呼ばれるものの大体の形です。あちらには社交文化、サロン文化の伝統がありますが、そう言った伝統の無い我が国では、もちろん、それをそのまま取り入れる必要はないでしょう。けれども、ヨーロッパの「サロン文化」のスピリットには敏感であってもいいと思います。もしかすると「サロン文化」などと言わなくても、私たちは縄文の時代から「平和と協調」の精神を心の中に秘めてきた人々なのかもしれません。ただ、カール・ユングも言うように、「無意識」を「意識の明るみに出すことは意味のある事ではないでしょうか。
「サロン文化」「社交文化の本質である「自分も生きる、あなたも生きる、そういう集まりだと平和で、活力があって、素敵だろうな。ワクワクするような面白い事が生まれるかもしれない。。。
そんな集まりを「アルテの泉」と呼ぶ事にしよう、2014年のある秋の日に、私はそう考えたのでした。